27「あなたがたがわたしに従って来るのも同じことです。『私たちはただ、するべきことを果たしているにすぎないのです』と言いなさい。」(ルカ17:10)
そう言われると、あなたは、
「そう言われても、私だって一生懸命に頑張ったのです」と言いたくなるかもしれませんね。
でもこうは思いませんか。
『一生懸命に頑張ることが出来たのも、神様がそういう力を与えてくださったからだ』…と。



26人が高ぶったり、偉そうにしてしまうのは、自分と人とを比べて、何とか勝とうとするからなのでしょうね。でもそんなことはする必要はないですね。
神様は、あなたをあなたとして創造され、私を私として創造たれたのだから。
夏場は、「暑さの折、どうぞご自愛ください」と素敵な言葉を聞きますね。
人事ではなくて、文字通り自らを愛することが謙遜に繋がるのだと、最近改めて教えられています。昔は「自愛」ということを否定的に語っていたけどね。




25人はみんな一人残らず、いろいろと重たいものを抱え込んでいるものなのだ。
高慢な人は、そんなことにも気が付かず、自分の事ばかりを語るのだろう。謙遜な人は、それに気がついていて、出来れば支えの手を差しのべようとするのだろう。



24どうも「牧師は偉い」と思っていらっしゃる方々も少なからずいらっしゃるようで、私などはびっくりする。
牧師は誰よりもへりくだり、人に仕えるべき者なのに。




23最近「マウントを取る」という言葉をよく聞きますね。
マウントを取りたい人には取らせてあげたら良いのです。そしてこちらは「一歩下がって勝つ」で良いのです。まぁ、勝つ必要さえもないのですが。
「謙遜」というのは、弱々しく腰を低くすることではないですね。
「謙遜」というのは、実のところ、強き心と広き心がなけれ実践出来ないことなのでしょうね。そのような心をいつも持てるようにイエス様に祈るばかりです。



22人はたぶんみんな高慢なのだろう。自分が一番正しいと思っていて、すぐにつけ上がる。そのことを自覚することが、謙遜ヘの第一歩であり、大切なことなのだと思う。


21あれほどイエス様が力説された「謙遜」。しかし「謙遜」というキーワードは、そのキリスト教界でさえも実に人気がないキーワードだ。なぜか? それはたぶんみんな高慢だからだろう。みんなで今一度考えるべき時ではないのかな。


20江戸時代に「アンポンタン」という名前の魚がいました。カサゴの一種らしいのです。体は大きく偉そうでしたが…不味かったらしい…。「高慢」ってそういうことですね。そのことを教えてくれて、アンポンタンありがとうね(笑)


19「愚か者は知ったかぶりをして失敗します。」(聖書 箴言10:8)
『自分が知っていることぐらいは他の人も知っている』…ぐらいに思っていてちょうど良いのです。もし他の人が本当に知らなかった時には、伝えてあげればよいだけです。知ったかぶりは恥ずかしいです。




18ある方が、「僕は好きで、自分がやりたくてボランティアをやっています。もしそれが誰かのお役に立っていれば、それはそれでとても嬉しいです」と言われていた。
爽やかだなぁと思った。


17聖書には、「謙遜になって、他の人を自分よりもすぐれた者と考えなさい。」と書いてあります。
だから私は今日もそう考えながら生活します。



16人が何か失敗したり事件を起こしたりすると、一億総国民が批評家となり一斉に批判を浴びせかけるインターネット時代だ。
もしも自分が同じ立場だったら同じことをしていたかもしれないというへりくだった心で深く考えてみることは忘れられてしまったのか。



15キリスト教のyoutubeを見ていたら、高慢な態度で上から目線で、「へりくだり」を語られる説教を聞いてしまった(笑)
人って私も含めて、そんなものなのだ。
だからこそ「まずは自分分から」という自覚が相当必要なんだよね。
まずあなたです。まず私です。他人事では決してない。



14私は、型やぶりなキリスト者とか、型やぶりの牧師さん達がたくさん出て来て欲しいと思っています。
ところで、「型やぶり」とは、まずしっかりと「型」を収めた人が出来ることだと思います。
「型」も何もないままに大きなことを言うのは、ただの言いたい放題です。そんな人からは私はそっと身を離します。そしてその「型」の中でも大切なのは、礼儀と謙遜だと思います。



13あなたは人から傷つけられたり、迷惑をかけられたりして、ずいぶんと憤慨することもあると思います。
でも、あなたも誰かを傷つけたり、迷惑をかけたりしているのです。それにあなたが気づかないことも多々あると思います。日本には「お互い様」という素敵な言葉がありますね。



12「これは自分だから出来ることだ…」
と思う高慢にも気をつけないといけない。あなたが出来なくなれば、神様は他の誰かをお立てになるはすだ。
「自分がやっている」ではなくて「させていただいている」のだ。
あの蟻の街のマリア北原玲子(さとこ)と、津軽のマリア川村郁(いく)とは、全く同じ方法で神様から謙遜にさせられました。
彼女たちは共に「これは私だからできている働き…」と自負してやっていた働きを、病気治療のために中断した時がありました。
すると他の女性が来て、2人の働きの後を継ぎ淡々とやったのです。
聡子は「悔しく感じ、嫉妬した」と正直に書き、郁は「病状が悪化するくらいイライラした」と正直に書き残しています。しかし彼女たちが素晴らしいのは、そのことを受け入れ、へりくだって行ったのです。心が謙遜へと整えられて行ったのです。


11高慢は「私は謙遜だ」と思い、謙遜は「私は高慢だ」と思う。


10「失敗は、謙遜の元。」


9悪魔は私達に人の悪口を言わせよう言わせようとするするのだろう。聖霊は私達に「まず自分だよ」と語られていると思う。


8あなたは今、嫌な誰かとの関係によっていろいろと訓練され磨かれているかもしれない。
一方で、あなたの存在も誰かを訓練し磨いているのだ…と知っていますか?



7イエス様はある宴会の席で、みんなが上座の方に座っているのをご覧になって、「まずは下座に座りなさい」と忠告されました。
これって日本人ならばイエス様から言われなくても常識とされていることですよね。
もちろん私もまずは下座に座れます。まずは下座に座るのですが、
「あっ、田崎さん、そんな処に座ってないで、どうぞもっと上の方にっ!」
とは言われない。なぜじゃあ、どうしてじゃあ!(笑)


6高慢は「私がやった」とアピールし、謙遜は「神様がしてくださった」と静かに語る。




5「神はへりくだる者に恵みをさずけられる」(聖書)
へりくだると、人の言葉や態度にいちいち目くじらを立てないという恵みにあずかるものだ。プライドが高いとそうはいかない。



4自分が分かっていることぐらい、他の人も分かった上でやっているのだ…と思うぐらいでちょうど良いのだと思います。
自分だけが分かっているという高慢にはならないことですね。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」(聖書 一コリント8:2)


3フランシスコ教皇の発言。
「謙遜は私たちのクリスチャン生活の基礎にある。それは、最悪の悪徳である傲慢に対する解毒剤です。高慢と傲慢は人間の心を膨れ上がらせるが、謙遜は物事を本来の次元に戻す。私たちは、良いところもあれば欠点もある。すばらしい存在ではあるが、やはり限界をもつ被造物である。」
そう、謙遜は私たちクリスチャンの基礎であるべきだと思います。
そう、そして神の目の前での最大の悪徳は、傲慢なのだと思う。


2私が「私は禿げた、頭の悪い牧師です」としおらしく言っても、それは謙遜ではなく、たんなる「事実」なのです。しかし、その自分の事実を正直に認めるのが謙遜です。そして謙遜になると、そうそう人様に偉そうに語れなくなるものです。それがへりくだりです。



1平安を保つ秘訣は、へりくだりです。だからイエス様もあれほどへりくだりについて説かれました。神様は、高ぶる者を退けると聖書に書いてあります。